世界一周してわかった!不登校だった私が見つけた「夢を叶える方法」

小学生の時に経験した不登校。みんなと同じでないといけない教育に疑問を感じた人は少なからずいるはず。

「不登校」→「中学の学校教育に疑問」→「進学校を辞める」という決断をしてきた私ですが、不登校だった当時はとても悩みました。

まどぅー
今日は不登校だった私が、世界一周して見つけた夢の叶え方をお話します!
全2話ストーリー
  1. 世界一周してわかった!不登校だった私が見つけた「夢を叶える方法」⬅︎イマココ
  2. 不登校だった私がアフリカで号泣。世界で出会ったみんなが教えてくれたこと
 

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学校に行かないという選択肢

何を隠そう私は小学校5年生の時、不登校でした。

当時、今でも覚えている母親が言った言葉。

学校以外にも学べる場所はたくさんあるよ。学校に行かないと決めることの方が勇気がある行動なんだよ!

不登校にも色々な背景があると思うけれど、私の場合は「行けなかった」んじゃない。学校に「行かない」という選択をしたんです。

まどぅー
そっか!私は学校に行けない可哀想な子どもじゃなくて、学校に行かない選択をした勇気ある子なんだ。

母のおかげでなんとかそう思えました。

中学は辛うじて通ったのですが「みんなと同じことをするのが正しい」と思っていることが疑問でした。

同じ髪型で、同じ服を着て、同じ持ち物で、同じ鞄を持ち、同じ靴を履く。はたまた下着の色や靴下の色や長さまで指定されましたね。

少しでも集団行動にそぐわなければ、体罰、連帯責任、そしてイジメに繋がったんです。

給食を残したら昼休みが終わるまで食べさせられ(完食指導)、クラスで一人でも忘れ物をしたら校庭を10周走らされます。隣のクラスに教科書を借りることも禁止。

みんなの思考は「先生に怒られるのが怖いから、忘れ物に気をつける」に変わっていき、もう完全に思考停止状態。

人間だから忘れ物の一つや二つはしますよね。

でも忘れ物をしてしまった時にどうやって対処するのか、どうやって解決するのか、「自分で答えを見つけていくこと」が完全に欠けていたんですよ!

誰がどんな気持ちでいるかとか、感情については一切話しませんでした。この学校で一番大事なのは「ルールを忠実に守ること」だったんですから。

「集団行動をしているんだから当たり前だ。ルールなんだから」と・・・。

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大事なのは肩書き?それとも・・・

「私が間違っているかもしれない。だからといってあなたが正しいという保証もない。」そんな考え持ちつつ、とても内向的な幼少期を過ごしたのち、反骨精神旺盛な子ども時代を過ごしました。

高校は進学校に入学。この高校を知っている人なら「○○高校?頭いいね!」と言われました。

高校二年生の時、進路相談の紙が配られたんですよ。

「この中から職業を選びなさい」と。

職業欄に書いてあるのは、教師、医師、保育士、看護師、福祉関係や公務員、事務系などがずらりと並んでいました。

私が迷わず紙の中から探したのは「ダンサー」

Dancer: Madoka Suzuki, Photographer: Tanabe+Photography

なかった。

ないなら、舞台スタッフか振付師かな。

紙にはたくさんの職業が書かれているのに、クリエイティブな分野が存在しませんでした。ダンサーだけじゃない。歌手も、漫画家も、お笑い芸人も、画家も、そこには書かれていなかったんです。

なんだか自分の生き方を否定された気がしたんですよね。

色々なことがあったけれど、この学校で学べるものは何もないと思い、辞めました。自分で職業を生み出すことだってできるはず。自分で生きていく力を身につけていくことは残念ながらほとんど学校では教えてくれない。

そして進学校を辞めた私に誰もが「もったいない」という言葉を投げかけました。

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人生の転機!世界一周の旅へ

私は誰なのか?私はなぜ踊るのか?人はなぜ踊るのか?

私の世界一周の旅はそこから始まります。22歳のことでした。

きっかけはパンフレットに掲載されていたアフリカ人の女性が楽しそうに踊っている姿を見たことでした。そこで10ヶ月ひたすらお金を貯めて世界に出ることに決めたんですね。

あのアフリカで幸せそうに踊る女性のようになりたい。そう思って。

訪れた南アフリカには、アパルトヘイトの影響でまだまだ経済格差があり、貧困からドラッグに手を出してしまう子どもたちがいました。

⬆︎「マッチ箱」と呼ばれる家で暮らす人たち

悲しい歴史アパルトヘイトがあった場所。でも、なぜだか懐かしい匂いがしました。

⬆︎路上での一枚。

そこで私は「踊りながら歌いながらデモをした歴史」を知りました。暴力には暴力ではなく非暴力で戦う術を彼らは提示していたんです。

⬆︎当時のデモの様子が写真で残されていました。

子どもたちに「夢は何?」と聞けば、返ってくる答えはギャングや麻薬密売人。夢さえ持てない子がたくさんいたそうです。

そこで立ち上がった音楽とダンスの団体があります。それがアフリカンユースアンサンブルアフロヘイギと呼ばれる団体でした。

武器ではなく音楽を」という使命を掲げて。

この団体のおかげで、「ダンサー」や「ミュージシャン」になりたい子どもが増え、現在ではプロの演奏家やダンサーが世に輩出されるようになったんですよ。すごくないですか!?

もう目から鱗状態でした。

だって、根強い差別や貧困から、犯罪に走ってしまう子どもたちを音楽とダンスが救ったんですから。

新たなダンスの可能性を見つけることができた私は、自分のダンスを競争して勝ち抜くために使うのではなく、彼らのような活動をしたいと、なんだか希望が湧いてきました。

南アフリカでのダンサーとの出会い

南アフリカ(ソウェト)ではピースボートが提供しているホームステイのプログラムに参加。

家にお風呂はなく、電気のないトイレが外にありました。そして小さなリビングルームとベットルームが一つ。向かい側にまた小さな部屋がある家に滞在しました。

「アフリカ」と聞くと電化製品は何もないような場所を想像をしていたけれど、割と立派なテレビとスピーカーが家に置いてありました。多分、南アフリカでいう中流家庭だったと思います。

そこで、偶然にも自分のホストファザーはタップダンサーだったんです。朝まで一緒に踊り明かすというなんとも貴重な日を過ごせたんですよ!

左:ホストファザー 右:わたし

現地ではこんなことを聞きました。

ダンスが戦いを生んだんじゃない。戦いがダンスを生んだ

路上では歩きながら歌っている人、生きたままの鶏を目の前で捌いている人、

地元のヒップホップのラジオ番組でパフォーマンスする人たち、

⬆︎ラジオ番組に飛び入りで一緒にダンスをした時の様子

音楽がかかっているところには自然と集まった地元の子どもたちがいました。

⬆︎地元の子どもたち

日本に帰って何気ない日常に戻って、こんな新鮮な日々を忘れてしまうのかと思うと、たまらなく帰国するのが嫌になったんです。気づいたらアフリカの路上で涙する自分。。。

同時に「自分のダンスをどうやって使っていくのか」自分の生き方の真髄になれると確信した日々でもあったんですね。

⬆︎島国モーリシャスで踊った時の写真

ダンサーになる方法は学校では教えてくれない

ほとんどの大人って子どもに必ず「将来何になりたいの?」って聞きますよね。例えば仮に「ない」と答えるとどうでしょう。「何かやりたいことないの?」と更に聞くんですよ。

では仮に「芸能人」と答えるとどうでしょうか。叶いそうもない夢だと判断されると「もっと現実的なものにしなさい」って言われちゃうのが今の世の中なのかなって思います。

私は10代の時からダンサーになるという夢がありました。人にはあまり言えなかった時期もありましたけど。「やりたいことがないからとりあえず大学に行く」という選択肢は1ミリもありませんでした。1ミリもです。

やりたいことは決まっているのに、漠然とどうしたらいいかわからない状態で、不安でしかない。夢の叶え方がわからなかったんですよ。

わかっているのは「学校では夢の叶え方は教えてくれない」ってことだけ。

ダンサーが職業として認知されるようになってきたのは最近のことなんですよね。当時の進路相談の紙にも書かれていなかったくらいですから。夢を人に批判されるのは「叶えるのが難しい」と一般的に認知されているからです。

でも、ちょっと視点を変えてみるだけで、夢の叶え方っていっぱいあるんですよ。

私は今ではあたたかい地元の人たちに支えられて、カナダでダンススタジオをオープンすることができました。

⬆︎スタジオレッスンにて。(Photo by Tanabe+Photography)

あのまま、何も知らずにガムシャラにやっていても、私の夢は東京の競争社会に潰されて叶えられなかったと思っているんです。世界で出会ってくれたみんなが夢の叶え方を教えてくれたと思っています。

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次回⬇︎

不登校だった私がアフリカで号泣。世界で出会ったみんなが教えてくれたこと。(後編)

後編ではダンスを通して世界で出会った人々が教えてくれたことについて書いています。

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