この記事は「不登校だったわたし」が地球一周の船旅「ピースボート」で世界一周したお話になります。
踊りながら世界中を旅していくうちに、人と違うことで悩む必要はないんだと思えた旅だったんです。
- ピースボートが人生の転機だった。「不登校だったわたし」の人生の作り方←イマココ
- 不登校だったわたしがアフリカで号泣。ピースボートで出会ったみんなが教えてくれたこと
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「学校に行かない」という選択肢
何を隠そうわたしは小学校5年生の時、不登校でした。
当時、今でも覚えている母親が言った言葉。
不登校にも色々な背景があると思うけど、わたしの場合は「行けなかった」んじゃない。学校に「行かない」という選択をしたんです。
わたしは学校に行けない可哀想な子どもじゃなくて、学校に行かない選択をした勇気ある子なんだ、と母のおかげで思えました。
学校教育に疑問
中学は辛うじて通ったのですが「みんなと同じことをするのが正しい」と思っていることが疑問でした。
- 髪型
- 服装
- 持ち物
- 鞄
- 靴
はたまた下着の色や靴下の色や長さまで指定されましたね…。
「すべてが同じ」で気持ち悪かった。
少しでも集団行動にそぐわなければ、体罰、連帯責任、そしてイジメに繋がったんです。
給食を残したら昼休みが終わるまで食べさせられ(完食指導)、クラスで一人でも忘れ物をしたら校庭を10周走らされます。
隣のクラスに教科書を借りることも禁止でしたね。
みんなの思考は「先生に怒られるのが怖いから、忘れ物に気をつける」に変わっていき、もう完全に思考停止状態。
人間だから忘れ物の一つや二つはしますよね。
でも忘れ物をしてしまった時にどうやって対処するのか、「自分で答えを見つけていくこと」が完全に欠けていたんですよ!
誰がどんな気持ちでいるかとか、感情については一切話しませんでした。
この学校で一番大事なのは「ルールを忠実に守ること」だったんですから。
「集団行動をしているんだから当たり前だ。ルールなんだから」と…。
高校をやめたキッカケ
「わたしが間違っているかもしれない。だからといってあなたが正しいという保証もない。」
そんな考え持ちつつ、とても内向的な幼少期を過ごしたのち、反骨精神旺盛な子ども時代を過ごしました。
高校は進学校に入学。が、またも事件が起きました。
進路相談での出来事
「この中から職業を選びなさい」と。
紙にはずらりと職業が並んでいました。
- 教師
- 医師
- 保育士
- 看護師
- 福祉関係
- 公務員
- 事務系etc
わたしが迷わず紙の中から探したのは
「ダンサー」
なかった。
ないなら、舞台スタッフか振付師かな。
紙にはたくさんの職業が書かれているのに、クリエイティブな分野が存在しませんでした。
ダンサーだけじゃなく、歌手も、漫画家も、お笑い芸人も、画家も、そこには書かれていなかったんです。
なんだか自分の生き方を否定された気がした。
色々なことがあったけれど、この学校で学べるものは何もないと思い、辞めました。
自分で生きていく力を身につけていくことは残念ながらほとんどの学校では教えてくれない。
そして進学校を辞めたわたしに誰もが「もったいない」という言葉を投げかけました。
人生の転機!世界一周の旅へ
わたしは誰なのか?わたしはなぜ踊るのか?人はなぜ踊るのか?
わたしの世界一周の旅はそこから始まります。22歳のことでした!
きっかけはピースボートのパンフレットに掲載されていたアフリカ人の女性が楽しそうに踊っている姿を見たこと。
この南アフリカで幸せそうに踊る女性のようになりたい。そう思って。
自分らしさを探せば探すほど、息苦しくなっていたから、「世界一周をしたら何かが変わるかも!」と、今振り返ってみればそう信じていたのかもしれません。
世界一周の船旅のこと。約100日間で20ヶ国ほど周るのが特徴。ピースボート記事は別ページへ。
南アフリカに訪れた
訪れた南アフリカには、アパルトヘイトの影響で経済格差がありました。
貧困からドラッグに手を出してしまう子どもたちもいると聞きました。
悲しい歴史アパルトヘイトがあった場所。でも、なぜだか懐かしい匂いがしたんですよね。
ダンスが子どもを救う
現地では「踊りながら歌いながらデモをした歴史」を知りました。
彼らは非暴力で戦う術を提示していたんです。
子どもたちに「夢はなに?」と聞けば、返ってくる答えはギャングや麻薬密売人。
夢さえ持てない子がたくさんいました。
「武器ではなく音楽を」という使命を掲げて。
この団体のおかげで、「ダンサー」や「ミュージシャン」になりたい子どもが増え、現在ではプロの演奏家やダンサーが世に輩出されるようになったんです。
もう目からウロコが落ちました。
だって、根強い差別や貧困から、犯罪に走ってしまう子どもたちを音楽とダンスが救ったんですから。
わたしは新たなダンスの可能性を見つけることができて、なんだか希望が湧いてきたんですよね。
自分のダンスを競争するために使うのではなく、彼らのような活動をしたいって。
南アフリカでのダンサーとの出会い
南アフリカのソウェトではピースボートが提供しているホームステイのプログラムに参加しました。
家にお風呂はなく、電気のないトイレが外にありました。
多分、南アフリカでいう中流家庭だったかと。
朝まで一緒に踊り明かすというなんとも貴重な日を過ごせたんですよ!
音楽がかかっているところには、自然と地元の子どもたちが集まりました。
旅を通して「自分の命は価値あるものなんだ」って少しづつ思えてきたのに、
日本に帰って何気ない日常に戻ることを想像すると、たまらなく帰国するのが嫌になったんです。
気づいたらアフリカの路上で涙する自分。。。
誰かの言葉で、誰かの考えで、誰かの感覚で生きてきた自分が、今変わろうとしている。
同時に「自分のダンスをどうやって使っていくのか」自分の生き方の真髄になれると確信した日々でもあったんですね。
「夢を叶える方法」は学校で教えてくれない
ほとんどの大人って子どもに必ず「将来何になりたいの?」って聞きますよね。
例えば仮に「ない」と答えるとどうでしょう。「何かやりたいことないの?」と更に聞くんですよ。
では仮に「芸能人」と答えるとどうでしょうか。叶いそうもない夢だと判断されると、「もっと現実的なものにしなさい」って言われちゃう。
わたしは高校生の時からダンサーになるという夢がありましたが、不安でいっぱいでした。
「とりあえず大学に行く」という選択肢もありませんでした。
でも、不安でしかなかった。なぜなら、
夢の叶え方がわからなかったからです。
わかっているのは、ダンサーになる方法も、好きなことを仕事にする方法も、学校では教えてくれないってことだけ。
世界一周をして「自信」をつけられた
ダンサーが職業として認知されるようになってきたのは最近のことです。
当時の進路相談の紙にも書かれていなかったくらいですから。
夢を人に批判されるのは「叶えるのが難しい」と一般的に認知されているから。
でも、わたしは今ではあたたかい地元の人たちに支えられて、カナダでダンススタジオをオープンすることができました。
あのまま、何も知らずにガムシャラにやっていても、東京の競争社会に潰されて夢は叶えられなかった。
ましてや不登校から引きこもりになって、社会と関わることを諦めていたかもしれない。
世界一周クルーズの「ピースボート」で出会った人々が「自信」を与えてくれたから、夢を叶えることができたと思っています!
そしてこの世界一周のお話は後編に続きます。
後編に続きます↓